「アトミック・ヘリテージ」の謎を解く 前川 智子
田上市長挨拶の様子 |
会場の様子 |
5 月 1 日 (金) 午前、 田上市長がアトミック・ヘリテー財団理事長、 シンシア・ケリー氏と面談される折に 3 人が同席できるということで、 朝長委員長、 被爆者の田中安次郎さんと副団長の私が同行する機会を得た。 場所は国連のすぐ前のビル内にある 「国際教育機関」。 タクシーが到着すると同時に市長や市のスタッフと一緒になり、 迷うことなく会談室へ。今日の目的は 「アトミック・ヘリテージ」 について直接、 理事長に話を聞くことと、 被爆都市の市長らが意見・要望を申し入れることだった。 私は事前の付け焼刃的な勉強で、 少しだけインターネットで下調べをして臨んだ。
四角に並べたテーブル中央に理事長、 理事長の右隣に長崎市長、 被爆者 (木戸、 藤森、 小溝)、 朝長、 前川、 田中と座り、 理事長の左隣に広島市長、 財団関係者。 その後ろにはマスコミのカメラが並んでいた。 何が起こるのか興味津々であった。
まず、 シンシア・ケリー理事長や財団の研究者が内容を説明、 次に長崎市長、 広島市長、 3 人の被爆者と朝長先生が質問や要望を。 それに理事長などが丁寧に答えていった。
< 「アトミック・ヘリテージ」 とは>
「マンハッタン計画」(核兵器開発の歴史) 関連施設三か所を国立公園化すること。
三か所とは
①ニューメキシコ州、 ロス・アラモス Los Alamos 原爆実験、 開発の中心。 広島・長崎原爆の製造・実験.(White Sand)。 現在は国立大学などと連携した国立研究所。
②ワシントン州、 ハンフォード Hanford
プルトニウム製造。 オークリッジ工場でプルトニウム生成が可能になると、 ハンフォードに大規模な工場を建て、 長崎に投下されたプルトニウムを生産。
③テネシー州、 オークリッジ Oak Ridge 核兵器に使用するためのウランとプルトニウムの分離精製の試験工場。 現在は国立大学などと連携した国立エネルギー研究所 Oak Ridge National Laboratory。
<なぜ国立公園にするの?>
理由は大きく二つ。 ①環境上の問題。 現在きちんと管理されていない三か所の貴重な施設を (放射線物質をきちんと処理した上で?) きれいに整備して子孫に永久に残したい。 ②国立公園化することによって、 施設を後世に残すことが出来るし、 世界中の人々に開放することが出来る。 そうでないと、 一部の人しか見られないものとなる。 (確かに現在は、 大学の研究所となっているので、 関係者しか入ることができない。)
<現在までの歩みと今後>
2004 年、 「国立公園化」 のための調査計画をするという法律が両院で可決。 調査結果を踏まえて 2014 年、 国立公園化が承認された。 10 年かかったことになる。 今後は内務省 (National Park Service) とエネルギー省 (Department of Energy) が担当して計画を進めていく。 財政は厳しいので、 まずは現在の建物を活用。
<被爆地の懸念>
会場の様子 |
原爆を賛美する内容にしてはならない。 誤ったメッセージを伝えると危険。 歴史だけではなく、 原爆が人体に及ぼした被害、 被爆者が過ごしたその後の悲惨な生活なども展示し、 核兵器を二度と使用してはならないというメッセージを伝えてほしい。 三か所が米国全土に亘っているので全てを見ることは難しい。 従って、 一か所だけを見ても、 このメッセージが伝わるようにしてほしい。 「パーク」 という名前は娯楽のようで軽すぎる。
<財団の見解>
原爆使用を賞賛する意図は全くない。 全てのストーリーが語られるものにする。 隠すこと(cover-up) なしに、 全ての事実をそのまま伝えたい。 70 年間に何が起こったかを知ることで今後何が起こるだろうかを考える場所とする。 核開発は悲劇と共に、 其の後の核エネルギーの開発をもたらした。 事実を提示し、 善悪の判断は見る人が決める。 アメリカには南北戦争の事実を展示するなど、 過去の事実と向き合う施設がたくさんある。 地球的観点から展示し、 対話と教育の場としたい。 常に改善していけるようにする。 原爆の実相を展示することについては、 (理事長自身としては) その方向に進めたいし、 今後も議論を続けて交流していきたい。 公園という名前以外についても考えてみる。
<ケリー理事長と直接会見>
ケリー理事長に説明する田中安次郎氏と通訳する私 |
会場の様子
積極的に質疑応答が行われながらも、 面談は和やかなうちに終わった。 面談後も両市長と理事長の笑顔での会話が進み、 更にはマスコミからの質問攻めで、 私たちの入る隙がない。 田中安次郎さんが持参していた長崎原爆写真集をどうしても手渡したいのに・・・
ようやく、 田上市長の気配りで、 マスコミをかき分けてケリー理事長と直接話すことができた。 安次郎さんが幼児被爆者であることと、 写真集の簡単な説明に理事長は真剣に耳を傾けてくれた。
<謎は解かれたものの・・・>
こうして、 「アトミック・ヘリテージ」 の概要、 財団の考え方は分かった。 しかし・・・私は複雑な気持ちである。 20 年前のスミソニアン博物館 (アメリカ首都ワシントン) で予定されていた 「原爆展」 が、 退役軍人の反対で実行できなかったことが思い出される。 当時も、 原爆投下の正当化を示すものではなく原爆の結果どうなったか、 実相を示すものにしてもらいたいと、 広島・長崎は申し入れをしていた。 時計や瓦など、 展示品を選んでいる最中でのキャンセルであった。 (その直後、 スミソニアン館長などが更迭された記憶がある。) 轍を踏まないことを願う。 あまり要望しすぎると、 また反対意見が持ち出されそうだし、 かと言って、 「正当性」 を謳うものになると怖い。 広島・長崎が要望する形になるように、 賢く・やんわりと議論を深めていければと願ってやまない。 今後も目を離せない構想である。
<全日程を通して感じたこと二点>
私にとって NPT 会議で NY へ行ったのは今回で 4 回目である:2005 年、 2010 年、 2015 年の再検討会議+2009 年の再検討会議準備委員会。 今回、 今までの参加とは別の新たな思いを感じた。
倉守照美と通訳する私 |
本村チヨ子と通訳する私 |
過去 3 回と同様今回も、 高校やフォーラムなどでの被爆体験講話とアメリカ高校生・市民との交流が、 我がチームとしては最大の山場であり、 最高の結果を残したと思う。 今回同行した被爆者は比較的若い被爆者で、 当時 4~5 歳、 或いは赤ん坊といった、 当時のことをほとんど覚えていない方々が主だった。 「被爆体験を語る」 という点では、 今までどちらかというと遠慮がちだった方々だが、 「ヒバクシャ」 という重みは同じである。 両親や周りの人から聞いた話でも、 私のような 「第三者」 が話すのと 「幼児・胎内被爆者」 が語るのとでは大違いである。 特に、 「放射線影響への不安」 は当事者でないと伝えられない。 今後の被爆継承を考えるとき、 若手被爆者や二世、 三世の活躍が期待される。 「私のような記憶のない者・直接体験のない者が語って良いのだろうか」 という心配をしないで、 堂々と語り継いでほしいと、 今回被爆者の通訳をしていて強く感じた。 同行被爆者全員が素晴らしい働きをしてくださったことに感謝!今後の継承の在り方が見えた。
② マスコミ
今回の我々の行動、 アメリカでは知る限りにおいて、 (日本人向けの地元新聞以外では) 殆ど報道されなかったようだが、 長崎からは報道各社来て、 連日私たちの活動を新聞・テレビで流してくれた。 活動が報道されることによって、 核廃絶運動や核廃絶という言葉そのものも広まり、 とても大切だし有難いことだ。 普段は一緒に 「平和」 の話はしない多くの友人・同僚・学生からもこの話題で話しかけられ、 嬉しかった。
娘からのメール:
平和行進でシュプレヒコールをあげるメンバー 右から3人目 私 |
「テレビ見ました。 アメリカの一般市民、 あまり関心がないようで残念でしたね。 でもね、 翌日だったか、 大河 (小6) が、 『ノーモア・ナガサキ、 ノーモア・ウォー』 と言っていました。 それを聞いて、 アメリカの人達の耳にもお母さんたちの言葉が残っているはずだと思いました。」
そう、 活動の成果はあった、 これからも続けていこうという力が沸いてきた。
残念ながら、 核廃絶は簡単ではない。 従って、 NPT 再検討会議は 5 年後にもあるだろう。 それに向けて、 今から筋力・金力と知識を付けていかなければ…
<あの時も私はニューヨークにいた>
2011 年 3 月 11 日早朝 (日本時間 11 日午後)、 私はニューヨークのホテルで目が覚めてテレビのスイッチを入れた。 CNN が日本の津波災害を放映していた。 あまりにも恐ろしい光景に目を疑った。 昨日までいた日本で、 人も車も船も家も建物も、 大津波に呑み込まれている様子が繰り返し伝えられていた。 その時真っ先に私の心に浮かんだのは、
「多くの人が自然災害で亡くなっている。 それなのになぜ人間は殺しあうのだろう?自然災害は科学の力でも防ぐことが出来ないかもしれない。 でも、 戦争は人間が作り出すものだから人間の力で防ぐことが出来る。」 という気持ちだった。
そう、 核兵器廃絶も戦争防止も人間の力でしかできない。
『ノーモア・ナガサキ、 ノーモア・ウォー』 の声を世界中に届け続けよう!