高校訪問 ブルックリン・フレンド・スクール 倉守 照美
渡米して 3 日目4 月 27 日。被爆体験を語り、 平和交流をはかる目的で、 ニューヨークにある男女共学学校 「ブルックリン・フレンド・スクール」 を訪問しました。 ここでは皮膚、目、髪の色など異なる多国民の生徒が 10 人位でのグループ別に分かれて話を聞いて交流を計るのです。 170 センチもありそうで体格の良い男女の生徒は好奇心と目の輝きがいきいきしています。温かくテーブルを囲んで迎えいれてくださいました。 被爆三世の孫と同じ年頃。 初対面ながら皆に親近感すら感じられました。
自己紹介。 核兵器廃絶を訴えることをスローガンとして、 ニューヨーク国連本部で開催されるNPT再検討会議に参加させていただいたこと。
長崎で被爆し、1歳。幼かったため、その当時の記憶は全くない。 両親は、自らの被爆体験を語るどころか、被爆の事実さえ、私に教えてくれなかった。 被爆者だと知れると子供たちがいじめや差別に会うと恐れてです。 目に見えない放射能の被害。 就職や結婚差別が事実味をおびて語られていた時代。 私は被爆者であることを自覚したのちも、 被爆者だと口にすることを躊躇して生きてきました。
被爆者の高齢化が進み平均年齢 80 歳になり被爆体験を語れる人も少なくなりました。 渡米して語りたくてもあまりにも体に負担がかかるのです。
そこで、 長崎の被爆者から自分の体験をアメリカの若者に語って下さいと託されました。
現在 91 歳。 戦後を生き抜き、 被爆 70 年の今なお自分が被爆したことの負い目を持ち亡くなった息子さんに仏前で 「ゴメンネ」 と謝り続けている苦悩を生徒さんに語ることにしました。
・次男の子供さんは血の病である白血病にて 55 歳の若さで死亡。
戦後生まれの息子さんに母乳をたっぷり与えた為に、 被爆した時の放射能が体内に残留していたことからそれを飲み発病したからだと主治医に言われた。
現在も医学的に放射能と白血病の因果関係は、はっきり解明されていないそうですが、リスクは高いという医学者の方も多くいるそうです。
「核も戦争もない地球を、 未来の子どもたちに伝えたい」と継承についても積極的に活動して下さっている被爆者。私も仏前に手を合わせ、 しっかり伝えてくると誓い渡米したのでした。
核と人間は共存できない。 被爆者が生きているうちに核兵器廃絶へ人類が動き出すことを切に願い、 被爆者の実相を知った人がまた別の人へと伝えることを切望し、 米国での証言は被爆者の 「遺言」 です。
平和の原点は人の痛みがわかる心を持つこと。
証言を終え、 原爆写真を配り、 1945 年 8 月 9 日 11 時 2 分、 長崎に原子爆弾が投下されて 70 年を迎える。 70 年という歳月の意味するものは何か?如何なる理由があって原子爆弾を投下した人類が犯した罪を、 決して忘れ去ってはならない。風化しつつある現実から視線を逸らさず」 人類の永遠の記憶として原爆の惨状、 惨禍を写真をとおして訴えました。
すべての生徒は原爆の恐ろしさを初めて知ったのでしょう。 終わったあと数人が手を挙げ質問となりました。
・そんなに沢山の人たちが死亡、今なお病気や精神的に苦しみ続けていることは知らなかった。
・原爆の被害がいかに甚大で悲惨なものか初めて知った。
・最愛の家族を失う気持ちがどんなものか分かるような気がする。
次々と感想に時間の経過するのはあっという間でした。
右端から、私、前川智子、アリ・ビーサー、左は高校生 |
生徒の目はうるみ言葉をつまらせるなど、 始まる前と今の表情は一変して人間の優しさをにじませているように見えました。
被爆者からの託された想いをしっかり聞いて受け止めて頂けたようです。
彼らの (生徒) に胸に 「長崎を最後の被爆地に」 という願いは胸に刻まれたと確信いたしました。最後に大きな拍手に包まれ、 ホッと肩の荷がおりたようでした。 互いに握手を交わし輪になり 「ノーモアヒバクシャ」 ノーモアウォ」 と合唱し、 笑顔で記念撮影。
最後になりましたが、 通訳なさって下さった前川智子さん、 渡米中、 心優しく接して配慮頂きありがとうございました。 また、NPTでのサポートの方々、 関係者一同に感謝致します。 ありがとうございました。