NPT 市民代表団の一員となって… 甲斐 一美
私は、長崎生まれでも、被爆 2 世でもありません。 島根県安来市に生まれ、 小学校 1 年の終りから、 高校 3 年までを佐世保で育ちました。 現在、 県内の小中学校の平和教育は、 とても充実していますが、 私が小学校に通っていた頃は、 修学旅行先が長崎市で平和公園を訪問したことと、 毎年、 夏休みの登校日だった 8 月 9 日に 「原爆許すまじ」 という歌を歌った記憶しかありません。 中学高校に至っては、 殆んど覚えがないのです。 そのように原爆についての知識もあまりないまま育った私が結婚して長崎市民となり、 また、 母となって、 平和活動に関わることになったきっかけは、 2003 年の 「第 2 回核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」 でした。
当時、 長崎市役所の嘱託職員として働いていた私は、 3 年に一度のこのイベントに事務局員として深く関わるようになったのです。 2006 年に開かれた第 3 回目の地球市民集会にも、 開催の準備に携わりました。 その 2 回の経験から、 多くの市民の活動を知る事となりました。 驚きだったのは、 地元市民だけでなく、 海外の識者や平和活動家の存在でした。 仕事柄、 海外からのレポートや論文を翻訳していたので、 その専門性や核兵器について学べる立場にあったからです。 その時、 私は心に決めたのです。 せっかく学んだ事を無駄にしてはいけない。 これからは、 更に勉強して平和、 そして核兵器廃絶に向かって、 微力ながら私も頑張っていきたいと。
そうして迎えたのが、 2010 年でした。 当時まだ実行委員ではなかったので、 連絡が遅れ市民代表団に入ることができませんでした。 でも、 諦めず、 個人でニューヨーク行きを決め、 当時 16 歳だった息子を連れ、 ニューヨークとワシントン DC へ合計 2 週間訪問しました。 ニューヨークでは、 市民代表団の皆さんのご好意により部分的に合流させていただき、 今回の訪問につながる貴重な経験をさせて頂きました。 その時も今もお世話になった代表団の皆さんへの感謝の気持ちを忘れてはいません。
【国連見学】
歴代の事務総長の肖像画のタペストリー |
ロビーの右手には、 会議場の壁に沿って、 歴代の事務総長の肖像画のタペストリーがまるで写真のような鮮明さで飾られています。 国連パスを持っている私達は、 誰にも止められることなく、 奥の本部ビルに入って行けますが、 通常はガイドツアーを予約し、 大人 18 ドルの料金を支払ってはじめて入館が許されるのです。 私は、 5 年前に参加した国連内見学ツアーでガイドさんから 「国連は、 アメリカのニューヨーク市にありながら、 アメリカではありません。 どこに国にも属さない国際的な領域です」 という説明を受けたことを思い出しながら回りました。
アグネス像を囲んで 代表団 |
国連内には、 各国から寄贈された絵画やオブジェがたくさん飾られています。 広島からも 1954 年に鐘楼 「平和の鐘」 が、 贈られています。 この鐘は、 中庭に設置されていて、 毎年 2 回、 春分の日と 9 月 21 日の 「国際平和デー」 に世界平和を祈念して鳴らされているそうです。 そして、 3 階回廊の突き当りには、 1983 年に長崎市から寄贈された、 浦上天主堂の被爆した聖アグネス像が展示されています。 何故か 5 年前にはあった後ろの壁の 「核実験は、 永遠に止めましょう」 の言葉と核実験のキノコ雲の絵、 被爆してボロボロになったシャツや瓦などの展示物が全て撤去されており、 壁の絵は塗りつぶされ、 ただ、 アグネス像だけが、 足下の小さな説明板と共にポツンを置かれていました。 これでは何のための寄贈かわかりません。 平和の使者として贈られたはずのアグネス像が可哀想に思えました。 次回、 国連を訪問する時もまた、 アグネス像に会いに行こうと思っています。
【出会い
】
今回の訪米は、 多くの方々と出会えたということも貴重な経験の一つでした。
ここでご紹介したいのは、 ニューヨーク・シティ・ラボ・スクールで被爆体験を語った山下泰明さんです。
現在、 陶芸家・画家である彼は、 6 歳の時、 長崎市の平戸小屋町で被爆しました。 1968 年にメキシコに渡り、 その時点で被爆者手帳が取り消され、 日本から何の援助も得られなくなったそうです。 2008 年にベネズエラ~ペルー間を水先案内人としてピースボートに乗ったのをきっかけに初めてご自身の被爆体験とメキシコの生活について話した時、 その船に 「ヒバクシャ・ストーリーズ」 のキャサリン・サリバン博士が乗っておられたことで、 その後、 サリバン博士と一緒に仕事をしているロバート・クルーンキストさんが毎年、 山下さんが住むメキシコのサンミゲル市を訪問されるようになり、 交流が始まって以来、 2011 年から毎年ニューヨークの 10 ヶ所以上の学校を訪問し、 被爆体験を語る活動を続けているそうです。 一度取り消された被爆者手帳も 「ヒバクシャ・ストーリーズ」 のお二人や長崎在住の被爆2世のご友人たちの尽力により 2011 年に再取得出来たそうで、 彼はこの奇跡のような出会い、 新たな絆の誕生にとても感謝していると私に話してくれました。
ニューヨーク・シティ・ラボ・スクールで被爆体験を語った山下さんは、 最後に生徒たちにこう語りかけました。
「平和を始めるために、 自分自身が平和に暮らすことを始めましょう。 友人、 家族、 そして将来の自分たちの子供も一緒に平和に暮らすのです。 憎しみが戦争を起こします。 私は、 あなたがたの誰一人死んで欲しくはありません。 平和の大切さを胸に刻みましょう。」
国連敷地内モニュメント前で 左前川智子、私、田上市長、倉守輝美、平野妙子 |