NPT会議への出席の旅 (独り言) 井手尾 弘
4 月 25 日
長崎県営バスターミナルを 11 時 30 分に出発し、N.Y.への旅が始まった。高速乗り合いバスとはいえ、福岡までの車中は貸し切りバスの様相を呈し、それぞれに想いを胸に仲間同士会話が弾んでいた。
福岡国際空港で思い思いに昼食を済ませ、大韓航空で、まずは韓国のインチョン空港へと向かった。そこで乗り継ぎN.Y.へと長時間のフライトに絶えなければならなかった。インチョンからN.Y.までの飛行機は思いの外、大型機で豪華に見えた。しかし、故障のために使えないトイレが有るなど、日本との違いを感じた。
フライト時間は予定よりも短くケネディ国際空港に早めに到着した。 しかし、 ゲートの空きを待ったり、また入国手続きに時間がかかったりとかで、 ホテル・ペンシルヴァニアに着いたのは日にちが変わろうかという時刻だった。 チェックインにかなり手間取り、 挙げ句の果てはダブルベッドとは名ばかりの小さなベッドがひとつ。 大人二人が寝るには狭すぎる。 波乱に満ちた旅になるのだろうかと気をもみながらのN.Y.の第一日が過ぎようとしていた。
4 月 26 日
午前中は通行証 (パス) を手に入れるため、 国連に出かけた。 前もって申請して貰っていて、 簡単に手に入れることが出来た。 NPT期間の 5 月 22 日まで有効とのことだった。 まずは、 国連の敷地の入るのに持ち物のX線検査・身体検査が行われたのでかなり手間取るかと思ったが、 思ったより簡単だったので逆に気が抜ける思いだった。
午後は平和行進に参加した。 長崎市民の寄せ書きの横断幕を先頭に、 N.Y.の街を行進した。 ノーモアナガサキ、 ノーモアウォーを訴えながら。 長崎からのメディアも来ていたし、 我々だけの行動にとどまること無く、 長崎からも連帯して貰えるのだと、 勇気がわく思いがした。
夜は現地のばってん会の人たちとの夕食会が催された。
4 月 27 日
午前中、 全員バスでブルックリンの高校へ出かけた。 最近はいずこもそうだろうけど、 簡単には校内への出入りはできないようだ。 でも私たちは事前の打ち合わせのお陰で、 すんなり受け入れて貰った。 まずはそこで職員との平和集会がもたれた。 同行の前川さんの流ちょうな通訳で、 スムーズに会は進んだ。
その後、 少人数のグループに分かれて、 自らの被爆体験を高校生らに話した。 事前学習をしていたのだろうか。 熱心に話しに耳を傾け、 関心の高さを感じさせた。 それから、 全校生徒が講堂に集まり、 全体会がもたれた。 その中で、 同行の末永さんから手作りの紙芝居が学校に寄贈される場面もあった。
予定の行事が済んで、 準備された日本食の弁当を摂りながら談笑した。 ルーズベルト大統領の孫に当たる人が隣に居合わせ、 原爆投下に係わる話が出来てよかった。
4 月 28 日
今日の予定は国連内の見学である。 全員歩いて国連に行くことになった。 碁盤の目のような道の筈が、 歩きようによってはかなりの時間差を生んだ。 でも、 全員無事に辿り着いた。
まずは国連内の見学をした。 これまでにどこかで見たようなものが殆どであったが、 ここに展示してあることが大切だと思った。 昼食は国連の食堂で思い思いのバイキングで楽しんだ。
右端から野田麻衣子、平山百合子、私 左は高校生 |
午後は近くの公園に行き、 プロのカメラマンによる被爆者の写真撮影がなされた。 被爆体験を尋ねながらの写真撮影にはかなりの時間を要した。 修了後タクシーでホテルに戻り、 暫く休憩した。 5 時半近くにホテルを出て、ヤンキースとレイズの野球観戦のため地下鉄でヤンキースタジアムへ行った。 少し遅れて球場に着いたので、 お目当てのマー君人形が貰えなかったのだが、 近くの座席のアメリカ人のご婦人から思いもよらずプレゼントしてもらった。 もう一つ自宅に持っているとのこと、 ラッキーだった。 試合結果は 4 対 2 でヤンキースの勝利だった。
4 月 29 日
午前中は自由行動だった。 吉田さん・末永さんと 3 人でグランドゼロに出かけた。 長崎に原爆が投下された 3 日後の米軍撮影による爆心地の航空写真にはグランドゼロと言う文字が表記されている。 まさか本国に同じ文字が表記される場所が現れようとは想定外だったろうに。 世界のどこでも、 どんなことが起こってもおかしくない世の中になってしまったのだろうか。
40 年余り前にN.Y.に来た時は毎日のように地下鉄を利用していたはずなのに、 全く覚えていない。 途中誰彼とも構わず、 尋ね尋ねてやっと辿り着いた。 シニア料金の 18 ドルを払って、 資料館にも入った。 テレビで見た光景は映画で無く、 実際に起きた出来事であることを実感させた。
午後の予定は高校訪問。 5 台のタクシーに分乗し、 目的の学校へ向かった。 そこの講堂で、 全校生徒をまえにして長崎の被爆者グループ
"ひまわり合唱団"のコーラスが披露され好評だった。 田上長崎市長も参加され、 長崎からの想いを披露する一役を果たされた。 これが本心で、 何時までもその想いを持ち続けて貰いたいと思った。 ここでも末永さんから手作りの紙芝居が学校へ寄贈された。
次に、 マンハッタン計画中のウランの貯蔵庫であったというビルを見学に行った。 それから、 キャサリン・サリバン宅を訪れた。 一日の予定が済み、 ホテルへはタクシーで帰ることにした。 暫くホテルで休憩した後、 田崎・吉田・末永さんとの 4 人で近くのレストランに行き麺類を夕食として食べた。
4 月 30 日
午前中は平和首長会議フォーラムを聞くために国連にタクシーで出かけた。 会議の内容はレシーバーから聞こえてくる音声に頼ったが、 通り一遍で新鮮さを感じなかった。
吉田・倉守・川上さんとその会議を中座して、 RECNAの学生とJAPAN SOCIETY前で合流し、 マイクロバスで日本人学校を訪れた。 そこでは学生が飛び込みの平和授業をした。 かつての自分よりはるかに上手な授業だと感心させられた。 同行の吉田さんは自らの被爆体験談をされた。
また国連に戻り、 北東アジア非核兵器地帯に関する会議の傍聴をした。 それから JAPANSOCIETYに出向き、 「ナガサキ・イン・ニューヨーク」 に参加した。 ひまわりのコーラスに始まり、 末永さん・本村さんの被爆体験講話がなされた。 その後団長の朝長さんが写真を提示しながら被爆直後のナガサキの様子を紹介された。 この時は通訳が入らなかったけど、 丁寧な英語で聞きやすかった。
5 月 1 日
昨夜は風邪で具合が悪く、 熟睡できなかった。 田崎さんに図らずも朝食を運んで貰い部屋で食べた。 また、 朝長団長さんが部屋に来て下さり診察をして薬をくださった。
午前中は自由行動になっていたので、吉田・末永さんとメトロポリタンに行く予定だったが、 養生のため独りホテルの部屋に残った。
正午近くに起き上がり、マクドナルドに行ってコーヒーを飲んだ。 それからタクシーでみんなとの合流場所・国連に向かった。
NGO プレゼンテーションを聞いて、 夜はばってん会との懇親会に参加した。
5 月 2 日
今日はニューヨーク滞在最後の日、 一日中自由行動だった。 川上・池田・野田さんと4人で現地のアマチュア無線家の招待を受けた。 暫く楽しんだ後、 マンハッタンまで送って貰い、 そこで現地のハムに別れを告げた。
全員バスで最後の予定であるコンサート会場に行き、 コンサートに聴き入った。 しかし、 帰りの飛行機に充分間に合うようにと中座せざるを得なかった。 全日程を無事に終え、 来る時とは逆の帰途についたのは深夜だった。
機内に携帯電話を置き忘れたというトラブルはあったものの、 たいしたトラブルも無く全日程を消化し、 一夜明けたとは言え昨日と同じ日、 5 月 2 日に全員無事帰国した。