核兵器廃絶地球市民集会ナガサキによる2015年NYで行われたNPT会議のリポートです。

心に残ったいくつかのこと 平野 妙子

 2015 年の NPT は、 多くの人が不安を感じていたように、 具体的な成果のないままに終わった。 それでも、 会議場の中にも、 その周辺にも、 小さな光は射していると感じている。

一番印象に残ったこと
  もしも、 原爆投下命令を下したトルーマン元アメリカ大統領の孫が、 「被爆者は私の友だちです。」 と言ったとしたら? もしも、 長崎に原爆を落とした B29 爆撃機の搭乗員の孫が、 「私が反核運動に携わるようになったのは運命です。」 と言ったとしたら? 私は、 想像すらしていなかった場面に突然出くわした。
 関係者の間ではすでに周知のことなのだろうが、 私には目眩のような、 信じられない光景を見ているようだった。 学生たちと交流するため、 私たち代表団が 2 日目に訪ねたブルックリン・フレンズ・スクールでのランチタイム。 ヒバクシャ・ストーリーズのお膳立てで、 上記 2 人と、 被爆直後の広場を取材した 「ヒロシマ」 の著者ジョン・ハーシーさんの孫の、 合わせて 3 人のお孫さんが招かれていた。 3 人はすでに被爆地を訪れたことがあり、 数年前から、 日本のメディアでも報道されている。 この、 原爆と特別関わりのあるアメリカ人の血を引く 3 人と、 いちどきに会うことになるとは思いもよらなかった。

【参考】ヒバクシャ・ストーリーズとは: 2008 年にアメリカで結成された NGO。 代表のロバート・クルーンキストさんと、 軍縮教育家、 キャサリン・サリバンさんが中心となって、 アメリカの学校を回り、 軍縮教育を行っている。

原爆投下命令を下したトルーマン元アメリカ大統領の孫 クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(57 歳)のこと

クリフトンさんは、 おじいさんが、 自分にとっては優しいおじいさんだったこと。 原爆の話はおじいさんから聞いたことはなかったこと。 原爆については学校で知ったこと。 ただし、 投下の正当性や死傷者の数といったことしか学ばなかったが、 ある日、 自分の息子が学校から借りてきた本 「サダコ」 (「原爆の子の像」 のモデルとなった広島の被爆者・佐々木禎子さんと千羽鶴の話) を一緒に読んだことがきっかけで、 初めて原爆とはどういうものだったかを知ることになったと語った。
ジャーナリストでもあったクリフトンさんは、 3 年前の 2012 年、 被爆者に直接話を聞こうと、 被爆者からの抵抗を覚悟の上、 来日を決意。 しかし来日してみると、 被爆者ばかりではなく多くの人に思いもよらず温かく迎えられた。 被爆者からは非難の言葉を浴びせられるのではなく、 ただひとつの言葉をかけられた。 「このような悲惨なことが二度と起こらないよう、 私たちから聞いた話を出来るだけ多くの人に伝えて下さい。」
私は、 ヒバクシャ・ストーリーズからアメリカに迎えられ、 やはりブルックリン・フレンズ・スクールに彼らと一緒に同席していた広島の被爆者、 山田玲子さんから、 別の機会に、 クリフトンさんに関してさらに詳しい話を聞くことができた。 玲子さんは、 クリフトンさんの初来日時にサポートした方で、 日本ではどんなことが待ち構えているかわからないが、 それでもいいかと念を押した。 しかしクリフトンさんは、 「どんなことがあっても、 何を言われても、 すべて受けます」 と言って来日した。 有名人の家系であるため、 いくつもの仕事をもっていたが、 全てを辞めて来日した。 多くのアメリカ人が彼を批判し、 友人たちも彼の元を去った。 それでも、 クリフトンさんの決心は変わらなかった。 今は彼を理解する友人もできている。 そして今、 クリフトンさんは、 「被爆者は私の友だちです」 と言っていると、 玲子さんが教えて下さった。

長崎と広島に原爆を投下した B29 爆撃機の両方に唯一搭乗していたレーダー技師、 ヤコブ・ビーザー氏の孫アリ・ビーザーさん (27 歳) のこと。
 アリさんは、 立場の違う 2 つの家系の間に生まれた。 片方の家系のおじいさんは、 B29 の搭乗員だが、 もう一方の家系のおじいさんは、 広島の被爆乙女と親交があったため、 この 2 つの家系は仲が悪く、 アリさんはその狭間で悩んできた。 アリさんは、 小さい頃来日し、 被爆乙女にも会ったことがある。 クリフトンさんと同様アリさんも、 苦しみ続けた長い時を経て、 今、 アリさんは、 この異なる 2 つの間に橋を架けたいと思っていると語った。 アリさんは、 ヒバクシャ・ストーリーズの専属カメラマンのような役割も果たしている。 被爆者の記録を頼まれているらしく、 国連内で開かれた 「被爆者レセプション」 やニューヨーク・シティ・ラボ・スクールでの、 被爆者歌う会 「ひまわり」 のステージなどを、 一瞬も逃すまいというように精力的に撮影していた。

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ステージ前に立って撮影中のアリさん1,
ステージ前に立って撮影中のアリさん
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ステージ前に立って撮影中のアリさん2,
ステージ下にかがんで撮影。右側がアリさん

 「ひまわり」 を撮影しようとするとアリさんが必ず写真の中に入ってしまうくらい、 アリさんの精力的な動きが目立っていた。 (ニューヨーク・シティ・ラボ・スクール)
「ひまわり」 のステージの後、 アリさんと直接話す時間が持てた。 アリさんは、 日本語も少し話す。 自分の今の活動を、 運命であり、 日本語で 「赤い糸」 だと言った。 「神」 (に与えられた) という言い方はしたくないが、 universe (宇宙・森羅万象) なことだと言った。 瞬時に頭に浮かんだ 「必然」 という日本語を教えると、 すぐさまその言葉を自分の虎の巻に加えたようだ。 そして 「こうやっていろいろな人が繋がっていく。 人と人との繋がりが広がっていけば、 核兵器は必ずなくすことができると思う」 と力強く言った。
ブルックリン・フレンズ・スクールでのランチタイムで紹介されたもう一人は、 「ヒロシマ」 の著者、 ジョン・ハーシーさんの孫、 キャノン・ハーシーさん (37 歳・アーティストで平和教育家) だ。 キャノンさんは今年 3 月初来日、 「被爆地を訪れて初めて祖父の話を実感した」 と語った。
ランチタイムのその部屋には、 3 人の他、 スクールの校長先生とスタッフ、 広島の被爆者山田玲子さん、 通訳を務めた現地の女性、 被爆者 9 名を含む私たち NGO 長崎代表団、 ヒバクシャ・ストーリーズの人たちがいて、 いろんな人がまぜこぜになっているという感じだった。 かつては敵味方として憎しみ、 殺しあった世代とその子孫たちが、 同じ部屋で賑やかに談笑しながら、 一緒に同じ弁当を食べている。 驚きの光景だった。 が、 私自身、 その中に身を置きながら、 その光景を俯瞰して見ていると、 未来の世界の縮図のように思えた。 そうであってほしいと思った。

縦軸から横軸へ
ふた世代あとを生きるクリフトンさんとアリさんは、 すでに、 70 年前の人とは違っている。 彼らは 70 年前の身内の関わった出来事と繋がることから逃げることはできず、 自身に責任はないにもかかわらず、 事実と向き合わざるを得ない運命を背負い、 一旦は、 もがき苦しむ時間に飲み込まれてしまった。 しかし、 二人を見ていると、 過去における、 支配するものとされるもの、 強者と弱者という縦軸の構図から、 古い世代と新しい世代という横軸の構図へと世界が動いていく可能性が感じられてくる。

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ブルックリン・フレンズスクール玄関ホール,
 ブルックリン・フレンズスクール玄関ホール・ピースホールを囲んで  右端:クリフトン・トルーマンさん、ピースホール左:山田玲子さん、ピースホール右:アリ・ビーザーさん

新しい世代は横に繋がり、 過去の人間の愚かさを共に修正していくという作業ができるに違いない。 クリフトンさんは、 ブルックリン・フレンズ・スクールでの生徒たちとの交流で、 「原爆を落としたことへの罪悪感を感じているか」 との質問に対し 「私自身は罪悪感ではなく、 (未来への) 責任を感じている」 と答えた。

NPT の中の変化
会議の結果は残念なものであったが、 NPT 再検討会議の中に小さな変化があったと思う。 5 年前まではなかった若者の発表の場 「ユースフォ-ラム」 だ。 もっともこれは、 世界平和首長会議が数年前から取り入れているものを、 そのまま、 今回の NPT 世界首長会議の中で行ったものだが、 しかし、 広島、 長崎、 沖縄を始めとする数カ国の若者が、 それぞれの平和活動についての発表を、 国連の NPT 会議の中で行った。 NPT 会議の小さな変化だ。 その若者たちの堂々とした発表の様子を見ながら、 これからは、 もっともっと若者の出番だと思った。 もちろん被爆者の方々とともに私たち被爆二世も頑張らねばならない。 そして、 新しい平和な時代を若者たちに創ってもらいたいと思う。

アメリカの中の空気の変化
 相変わらず、 アメリカのメディアは NPT のことはほとんど報道しない。 アメリカのメディアの無関心がよくわかる。 しかし、 前述の山田玲子さんから、 こんな話を聞いた。 数年前までは、 アメリカの学校で体験講話をすると、 必ずのように手が挙がり、 「原爆投下は戦争終結を導くために必要なことだったのではないか」 との質問がでていた。 しかし、 最近はそういう質問の手は挙がらなくなった。 ということだ。 そういえば、 私たちが訪問したニュヨーク・シティ・ラボ・スクールでも、 被爆者の話の後に、 そんな質問は出なかった。 みんな静かに聞いていた。 この変化は、 ひとつには、 ヒバクシャ・ストーリーズのロバートさんやキャサリンさんの、 7 年半に亘る活動の成果ではないかとも思う。 アメリカ国内における教育の貴重さを思う。 小さな光が交差し合っていけば、 次第に大きな光になると思う。 NPT が失敗に終わっても、 希望は生まれている。 あきらめてはいけない。

最後に、 谷口稜曄さんとピースマーチ
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谷口稜曄さんと,
 NPT 開会前日のニュヨーク・ユニオンスクェア広場。 ピースマーチ出発式に日本各地からの代表団を始め、 各国代表団が、 様々な横断幕やプラカードを手に、 趣向を凝らした身なりで参加。 仮設ステージに現れた松井広島市長他のスピーチに耳を傾けているうち、 ふと気づくと、 すぐそばにいたはずの NGO 長崎代表団が消えてしまっていた。 広場内をくまなく探して歩くが、 見当たらない。 早めに出発してしまったようだ。 どちらの方角へ消えたのか見当がつかず、 ひとり取り残され迷子になってしまった私は、 この先どうしようと途方にくれたが、 腹をくくり、 ピースマーチが始まるまで待つことにした。 20 分ぐらい待っただろうか、 ステージではまだスピーチが続き、 本格的なマーチはなかなか始まらない。 と、 その時、 私が立っていた仮設ステージ裏側に、 スーッと、 車椅子に乗った谷口さんが現れた。 良かった。 迷子になったお陰で、 谷口さんに会えた。 谷口さんは、 NPT 開幕前に NGO 主催の会場でスピーチをされている。 長崎を発たれる前に 「亡くなられた多くの被爆者や、 反核運動に関わってきた沢山の人たちが谷口さんの後ろにいますよ。」 と声をかけていた。 「スピーチうまくいきました?」 と尋ねると、 小さく頷かれた。 メディアもすぐ谷口さんに駆け寄ってくる。 車椅子の谷口さんの姿を少し遠目に見ると、 疲れておられるようだったが、 特別な 「気」 に包まれているように見えた。 核兵器に打ち勝ってきた生命力の 「気」 のようだと思った。

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平和行進,
その後ようやくマーチは始まり、 その方角へ走っていくと、 思ったより速度が遅かったのか、 なんとか代表団に追いついてほっとした。 ひとりが教えてくれた。 「平野さんがいない、 平野さんがいない、 と言いながら、 でも、 みんなどんどん歩いていった」 ・・・らしい。 終着地点となる国連本部近くのハマーショルド広場までは、 およそ 1 時間。 しかしゆっくりしたテンポだったため 1 時間半はかかったようだ。 代表団は手作りの横断幕を持って 「ノーモア・広島、 ノーモア・長崎、 ノーモア・ウォー」 と繰り返しながら歩いた。 すぐ後ろで韓国の代表団が、 やはり声高に韓国語で何かを叫びながら歩いている。 核兵器廃絶,地球市民集会ナガサキ2015,
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ホッと一息, 取り締まりの警官はただ、 ラインを越えるなという指示を出す他は、 特に混乱はない。 沿道を歩く人は関心があるのかないのか分からない。 が、 途中、 椅子に腰かけてこちらを見ているお年寄りがあった。 応援してくれているのだろうか。 '核ミサイルはノー'というデザインらしい 「平和な星に集う」 と書かれたポスターを前にし、 手には、 6 月から 12 月にかけてアメリカで開かれるという大規模な原爆展 (丸木位里・俊夫妻の 「原爆の図」 巡回展) のチラシを持っていた。 ふと、 どこかで見たような光景が重なった。 32 年前、 ヨーロッパの反核運動が盛りあがった 1983 年、 世界各地から集った人々が、 オリンピック発祥のギリシャで、 マラソンコースを歩くピースマーチに参加した時、 たくさんのギリシャ市民が沿道に溢れ、 私たちを迎えてくれたあの眼差しと同じだと思った。 一緒に歩けなくても核兵器ノーの意志を示してくれている。 この光景が、 アメリカでも、 もっと広がってくれるといいと思った。