NGO代表スピーチ

私たちは考え方を変えられるか

核時代平和財団会長(アメリカ)
デイビッド・クリーガー

 伊藤市長、被爆者の皆様、そして友人の皆さん、
  第3回核兵器廃絶地球市民集会のために、ここ長崎に戻ることができたことは、私にとって名誉なことであります。人類による破滅的な発明である核兵器の管理は、市民の活動やイニシアチブが指導者たちを導くことによってのみ可能になると私は確信しております。
  私は〔ここで〕、一見古いテーマに見えても現在も非常に重要な、ある点に立ち戻ってみたいと思います。今から50年以上前に、アルバート・アインシュタインは「原子分裂は、私たちの考え方を除くすべてのものを変えてしまった。そのために、私たちは今までに例を見なかったような破局へと押し流されていくことになるのだ」と警告しました。私たちの「考え方」を変える、ということでアインシュタインが何を意味していたのか、考えていきたいと思います。    
 アインシュタインは、人類が紛争の解決にあたって常に武力に依存してきたことを、古い考え方、と呼んでいるのです。彼は、核の時代にあって武力に依存することは、私たちを破局に押しやることだと信じていました。アインシュタインの警告とは、「核兵器の出現とともに、国際体制において長年流通してきた通貨ともいえる武力の行使は、単に国家のみならず文明、ことによると人類そのものでさえも危険にさらし、武力を国家間の紛争解決の手段とするのは受け入れがたいほど危険なこととなった」という認識であったのです。
  紛争解決にあたって私たちが武力への依存から抜け出すためには、それを代替する何かを見つけなければなりません。威嚇や武力行使に取って代わるべきは、正直な外交であり、国家間の相違が大きくとも、その解決を目指して継続的な対話に参加していく意欲です。米国による最初の核兵器実験実施当日までひと月にも満たぬ1945年6月に、それらの目標を掲げて国連が創設されたのです。
 国連は「戦争の惨劇を終結させる」ことを模索していました。この達成のために、国連憲章は自己防衛という限られた場合を除き、武力の行使を禁じています。それも国連が状況を掌握するまで、もしくは国連憲章の第7条に基づく安全保障理事会の許可を得た上で、という条件つきです。
  残念ながら威嚇や武力行使の禁止において、国連は現在までのところあまり効力を発揮しておらず、その原因は主に国連の体制にあります。つまり安全保障理事会の常任理事国である5カ国に、特別な力を持たせる体制となっているのです。これらの国々は、自国の行動が適切な精査や規制を受けるような処置に対して、拒否権を発動することができるのです。国連憲章の力強い冒頭文言、「われら連合国の人民は」という言葉にもかかわらず、国連は人民の議会ではありません。むしろ国民国家のクラブであり、そこでは最強メンバーがその他のメンバーと異なるルールに従って動いているのです。
  皮肉なことに、国連は、世界の最も差し迫った危機問題解決に本気で取り組むためというより、どちらかといえば最強の国々が自国の便宜を図るために利用されてきました。私たちが紛争の非暴力的な解決を望むのであれば、国連が真の対話の場、人類の議会となるようこれを改革、強化していかなければなりません。

 必要な「考え方の変化」の一つに、世界を変えていこうとする上で市民参加の重要性を認識するということがあります。世界の問題は、市民の積極的な参加なしで政府に任せきりにするには、あまりにも深刻かつ危険です。市民は自分たちの政府の行動に対し、あたかもそれらが自らの命にかかわるかのごとく責任を持たねばなりません。そして事実、それらは自らの命にかかわることでもあるのです。核の時代にあって、核兵器を保有する国々は地球上のすべての住民の将来に影響を及ぼします。市民が無知、無気力であったり、あるいは現実から目をそむけたりしていれば、政府はおそらく戦争という大きな間違いを犯すでしょうし、間違いの中には否応なく核戦争も含まれることになります。
  考え方を変える上でもう一つ必要なのは、核兵器を、安全保障の概念からも、国策からも切り離すことです。核兵器が国をより安全にすることはありません。これらの兵器は報復すると脅すために利用できますが、現実に物理的な安全を提供することはできません。抑止力の理論は、あらゆる面での理性の働きと、効果的なコミュニケーションを要求しています。しかし私たちは、人間が、ことに危機的状況においては、常に理性的とはいえず、また相互に完璧な意志の疎通を取っているわけでもないことを知っています。このことは、キューバのミサイル危機時に行われた主要政策決定者の会議において明らかになった重要な事実のうちの一つです。そこで危機関係者が互いについて行っていた憶測の多くが誤りであったことが明らかになり、彼らが〔最終的に〕核戦争を避けることができたのは大変な幸運だったのです。

変化が必要なもう一つの考え方は、豊かな国と貧しい国の二重構造の中で、豊かな側の持つ自己満足感です。経済格差が非常に大きく、世界の多数の人々が極端な貧困の中、不利な条件のもとに生きている一方で、少数の人間が過剰な豊かさのうちに暮らしている間は、戦争がなくなることはないでしょう。今日の通信は、持たざるものに対し、高い壁の向こうの富めるものの世界で起きていることがらを知らしめ、そのことが両者の緊張を悪化させています。
  この富裕な国と貧しい国の二重構造は、核を持たざるものと持つものの世界にも映し出されています。世界の人口の大半が絶望的な貧困の中で生きているときに、富裕層の砦では核などの兵器が自分たちを護ると考えている、といった状況がいつまでも続くわけがありません。また世界がいつまでも、宗教やイデオロギーにより安全に分断されたままである、ということもありえません。

核兵器はその他の兵器と同じく、分断された世界における権力の流通通貨の一つです。人類が本質的に一体的であることに対する認識やすべての人間が共有している命の奇跡に対する認識が広く普及していれば、武力に訴えること、特に核兵器の使用に伴う無差別大量破壊の脅しを続けることを正当化するのは、現状よりもはるかに難しいものとなるでしょう。
  核の時代に必要な考え方の変化とは、権力と武力に基づいた古い考え方が私たちを核の危機へと導くことになった、という認識を基盤としたものでなければなりません。この認識を得るには学校組織および私たちの文化全般において、権力への服従と「力は正義なり」という考え方の強化ではなく、協力、包括性および対話に向けた包括的な教育プログラムを持つことが必要となります。私たちの教育制度は、人々を「力の法」ではなく「法の力」の恩恵に目覚めさせるものでなくてはなりません。それには批判的思考法、そして追従よりも指導力、国家主義よりも全世界主義を推進する教育が必要となります。

考え方を変えるという文脈において、日本の外交政策について、いくつか申し上げたいことがあります。日本政府は米国の核の傘に依存し続けています。それはすなわち、力に頼る古い考え方の表れであります。その上、日本政府はミサイル防衛の展開において米国と手を結んでいます。核兵器と同じく、ミサイル防衛も安全に対する誤った意識を与え、攻撃的な展開をさらに促進するものです。政府が北東アジアの非核地帯創設の先頭に立つことを模索したほうが、日本の人々の安全ははるかに確かなものとなるのです。また日本は米国に圧力を加えるべきであり、日本自体は北朝鮮に対し、核のないことが検証可能な朝鮮半島をつくることの見返りに、安全の保証と開発援助を与える動きに加わるべきなのです。
  人を勇気づける模範である被爆者の方々の考え方の変化を、私は心から称賛いたします。自分や愛する人々を襲った悲運に対する怒りの枠内に留まって復讐心にとらわれ続ける代わりに、被爆者の方々は許しを示し、他の人々が同じ運命に苦しむことのないよう活動してこられました。多くの被爆者の方々の人生は、新しい考え方の模範ともなるべきものです。残念なことに、平和記念資料館など長崎市と広島市による思慮深く、また人々の気持ちを動かすような持続的な努力にも関わらず、被爆者の精神は日本政府の政策に十分な影響を与えていません。
  国の交戦権を否定した日本憲法の第9条は、新たな考え方を反映するものです。国家主義的な色合いを増す指導者たちのもとで、日本が第9条を放棄、または修正することになれば、世界および日本にとって大きな後退となるでしょう。
  アインシュタインが必須であるとした「考え方の変化」には、勇気あるリーダーシップが必要となるでしょう。平和な世界を望む被爆者の方々やその他の人々には、より多くの貢献が求められるでしょう。核兵器主義の組み込まれた現状の軍国主義的文化への非協力が求められ、強力な意見、努力の継続が必要となるでしょう。そして何よりも、核兵器と戦争のない世界のための戦いを決してあきらめぬ粘り強さと献身とが求められていくことになるでしょう。

 

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