被爆者の訴え

 私は1945年8月9日、当時16才の時、爆心地より約1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。
三千度・四千度とも言われる、石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれ、秒速250メートル、300メートルの爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられました
。道路に伏せていても、暫くは地震のように揺れ、吹き飛ばされないように、道路にしがみついていたのです。顔をあげて見ると建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、埃のように飛ばされていたのです。近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。此処で死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。
暫くして、騒ぎがおさまったので起き上がって見ると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当ててみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリ付いてきました。
それまで乗っていた自転車は、車体も車輪も曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家は方々から火の手が上がっていました。吹き飛ばされていた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。傷からは1滴の血も出ず、痛みもまったく感じなかったのです。

@1945年9月中頃撮影

A1946年1月31日撮影

 
この写真は1945年の9月中頃撮影されたものです(写真@)
 
この写真は約半年後の1946年1月31日に撮影されたものです(写真A)

 身動き一つできず、座ることも横になることも出来ません。死の地獄をさ迷い、滅び損ねて生かされてきたのです。1年9ヶ月過ぎてやっと動けるようになり、3年7ヶ月過ぎて、病院を退院しました。
  これまでも入院を繰り返し、手術を繰り返しています。「平和」がよみがえって、半世紀以上が過ぎました。昨今の世相を見れば、過去の苦しみなど忘れ去られつつあるようです。だが、私はその忘却を恐れます。忘却が新しい核兵器肯定へと流れていくことを恐れます。私はモルモットではない。もちろん見せ物ではない。でも私の身体を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度よく見てほしい。私は、じっと見つめるあなたの目の厳しさ、暖かさを信じたい。核兵器と人類は共存出来ないのです。
 私が歩んで来たような、こんな苦しみは、もう私たちだけでたくさんです。世界の人類は平和で豊かに生きて欲しい。人間が人間として生きて行くためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません 。
  私は核兵器がこの世から無くなるのを見届けなければ安心して死んで行けません。
長崎を最後の被爆地とするため。私を最後の被爆者とするため。核兵器廃絶の声を全世界に広げましょう。



(財)長崎原爆被災者協議会 会長 谷口 稜曄
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