分科会報告
分科会6:被爆者フォーラム
核兵器廃絶に向けた若者のアプローチ


はじめに
 今回の被爆者フォーラム分科会は被爆者運動の原点と継承をテーマに設定し、報告と討論をおこなった。

報告1 舟橋 喜惠 『世界の被団協を』
 地球市民集会では毎回被爆者フォーラムが開かれてきた。このことは核兵器廃絶という目的のために被爆者がしなければならないこと、被爆者に期待されていることがいかに大きいか、ということを示している。

  今回と第2回は「被爆者」と漢字でかかれている。第1回はカタカナ書きだった。広島・長崎の被爆者のほかにネバダ、セミパラテンスクの証人が参加していた。ヒバクシヤとカタカナで問題提起しても、世界各地の核被害者のなかで原点というべき広島・長崎の被爆者の存在感が弱まるわけではなく、むしろ普遍的な意味をもつことができる。フォーラムはカタカナ書きの意味をもっと強くしてはいかがかと思う。言葉の問題だけではなく、世界中のヒバクシヤが結集して運動しなければ核兵器は簡単にはなくせない。増え続けている核被害に国境はない。核被害を食い止めるためにもヒバクシヤ運動に国境があってはならない。被爆者フォーラムが着実にすすんできた流れを今後も継続させ、マンネリに陥らないために新しい情報の国際的な交換と新たな国際的視点を盛り込んだ運動が基本的条件ではないか。
 1977年のNGO被爆者問題国際シンポジウムの大会宣言は私たちはみなヒロシマ、ナガサキの生き残りだ、私たちもまた被爆者だ、と述べていたことを思い出す。
survivorsやvictimsではなく、ローマ字表記のHibakushaが多くの関係者にその後使われ定着してきた。この大会では発言者は、何百キロのところで被爆した、何万何千キロのところで被爆した、という言い方で連帯を表明した。しかも1977年から30年が経過しようとしている現在の核状況のもとではいつ何時、誰もがヒバクシヤになってもおかしくない状況がある。カタカナ書きのヒバクシヤとは人類すべてがヒバクシヤになるかもしれない危機的状況を示している。
 被爆者運動と被爆証言のこれまでの成果をどのように継承するか。継承とは、被爆者運動の継承と被爆体験の継承がある。区切りの年ごとに提起がくりかえされてきた。運動の活性化、体験を若い世代に伝えていくための試みがされてきたが、ヒバクシヤの連帯を訴えたい。広島、長崎の核被害者が軸になって世界の被団協を結成する使命がある。交流だけに終わらず、運動として結実するためには世界被団協の結成が必要。世界の被団協を、という提案は、日本被団協結成時の初代事務局長・藤居平一氏が「世界の被団協を作ることが私の遺言だ」と語っていたことでもある。
被爆者援護法の被爆者の範時に入らない、2週間後に広島に戻った彼には「アンタは被爆者じゃない」ということばを浴びせられた経験や、広島と長崎の被爆者をいかに結びつけるか、救援金をどのように使うか、連帯と運動の継続という点でさまざまな苦労があったこともインタビューできいた。ぜひこの思いを伝えたい。

報告2 山田 拓民 『間違いの根本は戦争被害受忍論』
 被爆者運動というとき、組織的な系統的な運動がはじまったのは50年前。広島の被爆者組織ができ、長崎被災協ができ、1956年8月に日本被団協が結成された。こんな悲惨なことはもう嫌だ、繰り返してはならない、再び被爆者を作るな、と唱えていてもなかなか進展しないわけで、具体的な取り組みが必要だ。再び被爆者を作らないという願いの実現の道筋が核兵器の廃絶であり、日本政府に対しては原爆の被害を償え、ということで1984年に原爆被害者の基本要求が整理・定式化された。「核兵器の廃絶」にとくに異論は出てこないが「償え」ということがすんなり入っていかないところがある。基本要求に支持賛同の署名をしてほしいと長崎県内の自治体にお願いしたが、応じたのは五島市と壱岐市だけ。長崎県、長崎市を含めて、国の償いを求めるというところがひっかかって賛同してもらえなかった。原爆被害は国が始めた戟争のせいだ、国は責任を認めて二度と戟争を起こさない証としての国家補償を、ということに国も地方も対応を迫られる。
 1978年3月の最高裁・孫振斗裁判判決で、原爆被害は「遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの」であり、被爆者対策は、「戟争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかる」べきものとされた。1977年には原爆被害の実相を究明するという趣旨で国際シンポジウムが開催された。被爆者運動がかなりもりあがってきたことに国が押し切られる危機感をもった。そこで、厚生大臣の私的諮問機関、被爆者対策基本問題懇談会に1979年に諮問、1980年12月に基本理念の答申があった。「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、.‥ すべての国民がひとしく受忍すべきもの」、と我慢するのが当たり前とした。1968年の最高裁判決に同様の文章があった。「国民の等しく受忍しなければならなかったところであり」と。最高裁判事田中二郎氏が基本懇に迎えられたからだ。しかし、最高裁判決と基本懇の大きな違いは、最高裁判決はあの戦争の被害は「受忍しなければならなかった」という過去形だが、基本懇答申では、「およそ戟争という」と一般論になっている。これは充分気をつけなければならないところだ。その兆しはすでに見えてきている。有事体制のなかで武力攻撃事態法、国民保護法のなかでは命令されていろいろな作業に従事する医者、輸送業者などが、攻撃を受けて死んだり、トラックがだめになるというケースの補償のことは書いてある。しかし一般の市民がけがをしたり死んだり家が壊されたりしても補償は一切ない。
 いっぼうで核兵器の被害はがまんできる被害だと規定しておいて核兵器廃絶を求める決議案を国連に毎年提出する意味があるのか。いまの核政策にしろ被爆者対策にしろ間違いの根本はこの戟争被害受忍論にあるのじゃないか。これから先は私たちだけじゃなくて若い人たちも含めて日本国民全部が受忍論にさらされているということを広めていかなければならない。広げていくことが日本がほんとうに核兵器廃絶を唱えることのできる日本になっていくこと、そうしたときに世界の核状況を変えていく力になっていくことができる。そうすることが私たち主権者の使命だと思う。

報告3 小浜 ちず子 『世界の核被害者の子どもに共通する被爆2世問題』
 両親ともに被爆者で、母と姉(当時1歳半)、兄(胎内被爆)は被爆者手帳を取得したが父は死ぬまで「被爆者手帳」の申
請をしなかった。父は、桧山の兵器工場に動員されていた伯母二人を捜しに爆心地付近まで入り、その後頻繁に病院通いをしていた。「周りは死体の山だった」と当時のようすを父が話すのを聞いたが、手帳をなぜ取得しなかったのかは話さなかった。母は76歳で白血病で亡くなった。被爆後長い間結婚問題などへの影響をおそれ、被爆者であることを隠し、手帳の申請をしなかった人も多かったと聞いている。今、高齢化に伴い種々の病気を発症し医療費もかさみ、子供たちも独立したので手帳を申請したが当時の状況を証明してくれる人がいないということで認められず困っている、という詰も聞く。
 私が被爆二世であることを実感したのは、私と同じく被爆者を親に持つ被爆二世の従姉が20歳で白血病によって亡くなったときだ。
今、被爆二世には、年1回国が健康診断を無料で行っているが、被爆二世にはこの健康診断以外には何の対策もない。しかし、私の従姉のように白血病やガンで亡くなったり、今も苦しんでいる方がいる。
 私は若い頃、県外に長くいたため原爆被爆のことを切実に感じたことはなかったが、長崎に帰ってきたある日、長崎市の広報誌で被爆二世相談窓口があることを知った。これは、長崎県被爆二世の会が2001年3月から週2回定期的に実施しているもので、被爆者からは子供の病気を心配し、何とか被爆者のような医療措置が出来ないものか。二世からは現実にガンにかかり、医療費や生活について現実に困っている、将来を大変不安に思っている、などの相談が寄せられている。県被爆二世の会は、相談窓口に電話を寄せられた県内在住の被爆二世の皆さんを対象に「被爆二世の集い」というものを行っている。そのなかで個人参加による二世の組織を作り、会員をつのることになった。被爆二世であることを公表することに躊跨したが、2004年2月、長崎被爆2世の会発足と同時に会の代表をひきうけた。
 私は1996年から8年間被爆者介護の仕事をしてきた。被爆者であるが故の差別や中傷も多く、また自分自身の健康不安はもちろんのこと、子や孫への影響を考えると、自分の体調が崩れ悪化しているにも拘らず子供の症状を心配しなければならない現実がそこにはあった。ある一人暮らしの被爆者は、二人の娘さんのうちの一人が病気がちで入退院を繰り返すため仕事もできず困っている。その病気は自分の被爆の影響があるんではないかという心配、現在の生活よりも先々の健康のことを気遣い、被爆二世に対する対策が何ひとつ確立されていない、と切実に訴えた。被爆者の高齢化がさらに進み、放射能の影響は急性から晩発性といわれるものまであり、被爆者の苦しみはが死ぬまで続く。
 被爆体験の継承として、私たちは「戦争と原爆の遺構めぐり」を行っている。被爆者の方から「現地」で被爆当時の具体的な状況を聞くとともに、どういう思いで生きてこられたかを聞くことで、被爆の問題が昔のことに終わらず今日まで続いていることを実感できるようになった。
 私たちは現在、国に被爆二世の存在を認めさせ、国家補償と被爆二世への適用を明記した「被爆者援護法」の改正を求める「原爆被爆二世の援護を求める署名」活動に取り組んでいる。また、約5年かけて、放射線影響研究所が行なってきた被爆二世健康影響調査が今年9月終了し、2007年3月ごろ解析結果が報告される予定である。この取り組みを通して、次世代まで続く放射能の影響を明らかにさせて核兵器の完全廃棄を求めていくつもりだ。
 世界には、核実験場周辺地域の核被害、ウラン採掘から精製、原子力発電に携わった人たちの被爆、原子力発電所事故による被爆、劣化ウラン弾による核被害など、放射線による被害者が数多く存在する。被爆二世・三世の問題は、今後、世界の核被害者の子供たちが直面する問題と共通するものだと思う。

報告4 湯浅 一郎 『被爆者だけではなくヒロシマ・ナガサキの市民として』
 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)は2001年3月に結成された。直接のきっかけは東京フォーラムに市民の声をとどけるための、長崎、首都
圏との連携して取り組みだった。広島では珍しい思想信条の立場を超えて議論する恒常的な組織をつくった。広島からの声を国際的に発信することも大事だが、日本政府を変えることが重要なので、首都圏、長崎のひとたちと外務省と対話をしていくというスタンスをとっている。市民がやらなければならないこと、やれること、それを担っていく主体をどうつくっていくか、被爆者の方たちも加わって、どう継承していくか、を模索している。
 2000年の再検討会議は、核兵器廃絶への明確な約束までこぎつけたが、その後核兵器廃絶への道筋がみえてこないという状況がある。しかし被爆者の存在そのもの、運動の力、二在存を酷けナ,闘い、取り糸日ぁの結集ケlノて核兵器を使わせてこなかったという「いま」がある。そのことを広島、長崎の市民は日々自覚して自分の生き方を考えて生活してはいない。あまりに身近すぎて歴史的社会的意味を自覚せずに暮らしているのではないか。私たちは広島県内にすむ市民のなかで自分自身の問題としてとらえていく人が増えるようにと願って活動している。そのさいのキーワードのひとつは多様性。一人一人の問題意識を大切に、自分のことばで広島、長崎の体験を語って行動する主体になれるか、なれないか、という問題だ。私は個人的には、仕事の関係で1975年に呉に来て、瀬戸内海の環境に関わっていきたいと思ったが、広くいえば科学技術の問題性について考えた。平和公園から原爆ドームのまわりを、自分だけで歩き回ったことがその後の人生に大きな意味をもった。街自身が被爆体験を物語っている場、市民がもっている歴史、苦悩を抱えながら生きてきた歴史と「場」から自分が広島に生きている意味を考えた。
 広島長崎の市民は海外に行くべきだ。外国の人々は事実を知らない。マレーシアでのアジア平和会議の体験、参加者の多くが映像を見たこともないことを知った。しかし、広島市・長崎市という名前は世界中に知られている。市民が自分の言葉で海外の人たちと対話していくことを一回りふた回り大きな数でやってみる。海外で見つめなおしてみる、そうすると違った状況が作り出せるのではないか。
 最近取り組んでいることを紹介したい。日の丸・君が代、校長の自殺問題などがあり、県の教育委貞会レベルでは、被爆者の証言を聞く会を8月6日全校で実施できなくなっているが、広島の公教育の場はどんな状況になっているのか、シンポジウムを準備している。公教育の場での被爆体験の継承を、と作業グループ(WG)を立ち上げた。現在劣化ウラン弾のWGは機能しているがさらに北東アジアの非核地帯化、平和教育、再処理工場間題=核兵器の原料物質を持つことに関するWGを計画している。教育委員会だけの問題じゃなくて、学校の先生が被爆体験を聞き継承しようという気持ちが薄れているのではないか。私たちはここ1年くらいその場に立って被爆体験を聞くという試みも行なっている。
 地元としての役割を担うということ、まだ
まだやることがある。被爆者だけじゃなく、たまたま広島、長崎に暮らして人々が市民として。

報告5 調 仁美 『被爆者の「想い」と「願い」を自分の想いとして』
平和案内人」は2004年、長崎平和推進協会によって被爆体験の継承と次世代への担い手を養成することを目的に育成事業が始まった。
現在、19歳から86歳まで90人の登録(うち被爆者は26人)で、平均年齢は56歳。平和案内人としての登録には、全16回の講座を受講し、ガイドとしての実技実習を経ることが条件となっている。
 私が平和案内人の活動に参加したきっかけは、4年前、長崎に来た友人を原爆資料館に案内した時、説明文にかかれていること以外何も説明できず、質問にも答えられなかった自分にショックを受けたことだった。長崎に生まれ育った私は小学校のころから毎年8月に平和学習を受け、被爆の実態に触れたつもりでいたものの、その時期を過ぎると深く考えることもなかった。あたりまえに自分の中にあると思っていた平和に対する知識がないことを知らされた。
 平和案内人の主要な活動は長崎原爆資料館内ガイドで、約1時間の館内移動解説を行う。
年間一人平均、20回、今年4月から9月までの半年間で7,623人、1日平均42人を案内したことになる。また、事前申し込み制の碑めぐりガイドは、申込者の希望を聞いて爆心地周辺の被爆遺構を約2時間かけて徒歩で案内するもので、同じく半年間で4,262人、1日平均23人、ほとんどが修学旅行生である。
 私個人はこの他に、いくつかのイベントにも参加した。
「青少年フォーラム」は毎年8月8〜9日、全国の自治体が派遣する平和使節団の青少年と地元長崎の青少年とが一緒に被爆の実相や平和の尊さについて学習・交流する試みだが、今年14回目をむかえ、28団体395人が参加した。そこでは平和案内人の中で最年少の19歳の大学生と私が参加型平和学習を行
い「原爆の恐ろしさ」「核兵器の現状と未来」という題でスライドを使って説明。中には「初期放射線」「残留放射線」「水素爆弾」など難しい言葉が出てくるので小中学生に理解できるか心配したが、子どもたちは知らない言葉を聞くことによってかえって興味が深くなったようで、多くの質問があった。
ナガサキ平和8・10(ハト)会議2006」は、高校生や大学生からなる実行委貞会が主催し、長崎原爆の日の翌日すなわち8月10日から新たに平和問題に取り組もうというイベントで、今年9回目を迎えた。今回初めて被爆者と平和案内人が参加し、被爆体験の継承をテーマに意見交換が行われ、私も平和案内人の一人として出席した。長崎出身の大学生からは、「平和教育によって拒否反応がでた」、「核兵器廃絶と最終目標を一方的に押し付けることは、個人の思考を妨げることになるのではないか」、「継承の重要性を感じない」との意見もでた。また、広島で平和活動に真剣に取り組んでいる大学生からは「学生間でも平和に対する温度差がある」、「これから、どのように行動していったらよいのか迷っている」など、素直な気持ちを聞くことができた。
 原爆が投下されてから61年、長崎の街にはビルが立ち並び、被爆者が火に覆われた街を脱出するために越えた山は緑に覆われている。これまでも当時の惨状を伝える多くの被爆遺構が失われ、戦争を知らない世代は「被爆」を実感として何も感じ取れないかもしれない。ニュースでは世界中の戟争の悲惨さが報道されているが、61年前の日本でも同様のことがあったとは思い至らない。毎年8月、定期的に行われている平和学習だが、受身の姿勢ではなく、積極的に話し合い考える日になっているだろうか。それでもまだ平和教育を毎年受けられる環境があるというのは重要なことだと思う。
 県外からも毎年多くの学校が平和学習のため修学旅行で長崎を訪れる。長崎市の観光客数と原爆資料館入館者数の推移をみると、観光客数は2005(H17)年をのぞいて減少傾向にあるが、修学旅行生の数も年々減少しているのが分る。少子化の影響も考えられるが、修学旅行のレジャー化傾向があるのだろう。
先日テレビで、広島の修学旅行生の減少対策として、平和教育だけでは減少をくい止めることは難しく、広島名物の「お好み焼き」体験を採り入れることで修学旅行生を呼び戻そうという活動が報道されていた。私は、平和教育が観光の一部になることに戸惑いを感じるが、どういう形であれ、とにかくその場所に来てもらい、そこで原爆や戦争の話を聞く機会を得るということをこれからは重視すべき、とも思う。近年インターネットの普及により、その場に行かなくても情報や知識を得られる時代になったが、私は平和教育に際しては実際の場所、人、残されたものに直接触れることの重要性を感じている。
 私の世代は、祖父母や両親、身近な者の話を通じて戦争時の状況を実感することがまだ可能だったが、私の子供たちの世代は、話を聞く機会も減り、自分で体験したことではないとあまり関心も示さないため、私も語り継ぐきっかけを見出せない状況がある。現在は、その役割を被爆者の方々が担い、被爆体験講話という形で多くの子どもたちに原爆の惨状を伝えてくれる。いま一度、その親である私たち世代も被爆の実態を学びなおし、継承の重要性を考え、その基盤をつくらなくてはならないのではないか。そのために少しでも多くの人の平和の意識を高めるために、興味を持った時にいつでも学べ、情報の共有ができ
る場所があることが必要だと思う。また、広い視野を養い、時代に沿った感覚を常に持つためにも、世代を超えた交流の中で自由な意見が述べられる場所が多くなれば、と思う。
 昨年、ガイドを始めしばらくして私は、戟後生まれで何の体験もないということと、マニュアル通りの説明にためらいを覚え、このままでは遺構や資料の持つ意味が相手に伝わらないのではないかとスランプに陥った。その時、被爆者の方から「継承のためには体験の有無という面での気後れを無くしてもらいたい」、「子どもが身近に感じられるような話に原爆の怖さを織り込んでやればいい」、「とまどいは今後の活動を充実させるための教材で、それを乗り越えることで自分の幅が広がると思う」といった助言をいただいた。その言葉が今、ガイドを行ううえで私の支えとなっている。最初は自分自身が学ぶことに精一杯で、目的を持たずただ話していただけなので相手に伝わっていなかっただろうと思う。現在私がガイドをする時には原爆の惨状を伝えるだけではなく、唯一の被爆国である日本のことを日本人が知ることの重要性や核兵器の脅威は今も続いているということを話している。相手の年齢によって理解しやすいように話の内容を考え、言葉だけで伝わらないことは、写真や絵、被爆者の証言で補足する。また、話が一方通行にならないよう、子供たちには質問を交えた会話をしながら話を広げている。
 どのような「継承」のあり方が正しいのか、私にはまだわからないが、私なりに感じ取った被爆者の「想い」と「願い」を自分の想いとして真剣に語り、新しい「継承」のあり方をさぐっていきたい。

会場からの発言とパネリストのまとめ発言から 『縦軸と横軸における「連帯」へ』
 フロアからの発言は、多方面に及んだが、活動紹介としては、東京での被爆者の声を受け継ぐプロジェクト50の試み、海外での被爆講話の経験を通じて確信した「話せばわかってもらえる」ということ、世界の被団協の可能性に関連して「被団協」という名前の重みを国連本部で実感した(通用した)ことなどが報告された。また、調報告、小浜報告を受けて、平和案内人、被爆2世と被爆者の交流、意見交換の必要性が指摘された。そのなかではいろいろな考え方を学びあうことの重要性、自由な意見の表明は尊重されなければ、深みのある認識に到達できないとの指摘があった。平和教育に関連して原爆資料館を訪れる修学旅行生の態度には違いがあり、事前に見学の目的などが生徒に理解されているかどうかが関係していること、つまり教師の目的意識の反映であるから、教師への働きかけが大事だとの意見があった。公教育の場から被爆体験を聞く機会が奪われている広島の状況は、日本の次世代への危機だという認識をもつべしとの意見、さらに佐世保と長崎の温度差、ちょうど起こった米軍前畑弾薬庫火災や原子力潜水艦の排水からの放射性物質漏れ等への世論の関心の薄さへの懸念が表明された。閣僚・与党幹部からの核保有論議容認
発言を聞くにつれ、被爆者の証言だけでは不充分でもっとウイングを広げる必要が述べられた。提言としては、被爆者運動が被爆者だけにならないようにもっと非被爆者と連帯することが強調された。被爆体験を伝えることは大事だが、先細りする危険があり、現代のホットな核問題と被爆体験を有機的につなげること、とりわけ核兵器保有国への被爆経験の「輸出」(事実を知らせること)、被爆体験を世界史的枠組みのなかに位置づけ、原爆投下されたとき世界はどんな状況になっていたかとリンクさせる視点があらためて重要だとの指摘があった。原点と継承という点では、原爆についての基礎知識(原子とは何か、核兵器の核とは何か、等)の理解が乏しいので、基礎知識を習得させることに努力をはらうべき、との提言もあった。
 多岐にわたる質問、意見、提言を受けて最後に報告者が短いまとめの発言を行ったが、そのなかでは1.公教育での楽観できない状況等があるが、悲観的になりすぎる必要はない、希望がある(中央アジア非核地帯化)ことの確認が必要、2.継承という点では世代間継承という縦軸と、広島、長崎以外の日本国内、世界への被爆体験を広げていくこと(横軸の継承)を同時に行っていくこと、被爆者、被爆2世の周辺のサポーターの取り込みが必要、ここに継承の秘密があるのではないか、との総括的発言があった。
 被爆者運動の原点と被爆体験の継承をキーワードに準備された被爆者フォーラムだったが、縦軸、横軸への広がりを、という問題意識が議論のなかで確認されたように思われる。そうであれば、問題の立て方は、「継承」という面にとどまらず、垂直的・水平的という両面における双方向性も含意した「連帯」というキーワードのほうが適切かもしれない(世代間連帯、被爆者と非被爆者、ヒバクシヤの連帯など)−コーディネーターとして最後に得た感想である。





 

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